幸田露伴の著書に「努力論」というのがあります。
この努力論の序章には、努力を続けるための4つの秘訣が書かれています。
【努力を続けるための4つの秘訣】
- 直接の努力と間接の努力を意識する。
- 努力しても成果がでないのは間接の努力が足りないからかも
- あなたは前に進むために努力することができる。
- 楽しく練習しよう。
太鼓が上手になりたいと思っている、あなた。
幸田露伴の「努力論」は読むべし。
ただ、幸田露伴は文体が難しいです。
なので、「努力論」の序章をカンタンに要約しつつ、そこから読み取れる4つの秘訣を説明します。
■(秘訣1) 直接の努力と間接の努力を意識する
努力は一である。しかしこれを察すれば、おのずからにして二種あるを観る。 一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。 間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。 直接の努力は当面の努力で、尽心竭力の時のそれである。
要約すると、
- 努力には、直接の努力と間接の努力の2種類がある。
- 直接の努力とは、目の前のことを精一杯やるという努力である。
- 間接の努力とは、直接の努力をする前の準備であり、基礎・源泉である。
というこです。
太鼓に置き換えていうと、以下のようになります。
- 直接の努力=練習や演奏会
- 間接の努力=そのための準備
ここで、準備とは練習の計画や振返り、必要な知識の獲得、良い演奏を見たり聞いたりして感性を豊かにすること、などです。
この二種類の努力を意識しながら活動すると効果的に上達できます。
■(秘訣2) 努力しても成果でないのは間接の努力が足りないからかも
そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。 ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。
それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望に努力するのは努力の方向が悪いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐がないのは、間接の努力が欠けて居るからだろう。
要約すると、
- 努力が成果を生むのは自然の摂理であるが、時々、努力しても上手くいかないこともある。
- それは、努力の方向が悪いからか、そうでなければ、間接の努力が足りず、直接の努力ばかりになっているからである。
- 無理ではない願望に努力して、それでも甲斐がないのは、間接の努力が欠けているからであろう。
ということです。
同じ時間の努力をするにしても、努力の方向性、つまり、練習目的やレベル感を適切に設定しましょう。
努力の方向性が正しいのに結果につながらないのは、直接の努力ばかりで間接の努力にかける時間が少ないからです。
つまり、やみくもに練習をしているだけで、どんな練習をすべきかという検討や、世の中にどんな練習があるかとい知識の獲得をしていないのです。
詩歌のようなものは、当面の努力のみで良い成果を得れるものではない。 朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。
要約するとこうなります。
- 詩歌のようなものは、当面の努力のみで良い成果を得れるものではない。
- 朝から晩まで、紙の前で筆を執ったからといって、文字を百千万と書くことはできるだろうが、それで詩歌の逸品はできない。」
太鼓も同じですね。
朝から晩までいたずらに太鼓を叩くのではなく、感性を高めたり、知識を増やしたり、計画を練ったり、振返りをしたり、といったことが大事です。
方向性を確認し、直接の努力ばかりでなく間接の努力もしましょう。
■(秘訣3) あなたは前に進むために努力することができる。
努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。
短いですが要約します。
- 努力するべきかどうかを、努力の効果があるかないかで判断してはいけない。
- 努力は、人の常に前に進んでいきたいという人間本来の姿なのだから、努力はするべきなのである。
あなたには、努力して前に進みたいという欲求が内在しています。
それは人間本来の姿、つまり「ありのままのあなた」なのです。
逆に言うと、努力をしないというのは「ありのままのあなた」ではないということです。
努力することがあなたの「ありのまま」の姿なのだから、ためらわずに努力をしようよ。
あなたは努力することができる。
■(秘訣4) 楽しく練習しよう。
努力は好い。
併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐡鞭を以て之を威壓しながら事に從うて居るの景象がある。 努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が爲せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。
(途中略)
努力して努力する、それは眞のよいものでは無い。 努力を忘れて努力する、それが眞の好いものである。
要約します。
- 努力は良い。
- ただし、人が努力するというのは、人としてはまだまだ、不純である。
- 自分の中に努力したくないという気持ちを感じてながら、鉄の鞭でこれを威嚇しながら無理に努力しているというイメージがある。
- 努力している、または努力しようとしている、ということを忘れていて、そして自分がやっていることが自然であるという努力であってほしい。
- そうであったら、それは努力の真理であり、醍醐味である。
- 努力して努力する、それは良いものではない。
- 努力していることを忘れて努力する、それが本当に良いことである。
練習やその準備といった行動を「鉄のムチ」で無理やり行っている状態は、まだ人間の自然な姿ではありません。
頑張って練習するのではなく、頑張るということ忘れるくらい、練習や準備が楽しくて熱中している状態、それが本来の姿です。
頑張らなくてもいいんです。
あたなたは、自然と楽しく一生懸命に練習することができるのです。
さあ、努力していることを忘れるくらい、楽しんで練習をしよう。
■まとめ
太鼓を10年、20年と長く続けていると、好調不調の波もあるし、モチベーションにも波があります。
頑張ってやる(=努力)、というだけでは長く続けるのは難しいかもしれません。
長く続けるにも工夫が必要です。
幸田露伴のいう、間接の努力がこの工夫にあたると思います。
間接の努力を意識して、長く太鼓ライフを続けたいものです。
間接の努力をどのようにすれば良いかということについては、またどこかで整理したいと思います。
最後に、幸田露伴の努力論は青空文庫で読めます。
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